津田梅子は日本語を忘れていた!?【日本史雑学】

津田梅子は父親の推薦により、黒田清隆の女子留学生計画に参加しました。

彼女は生涯を日本の女子教育に捧げ、

日本女子教育のパイオニアとして知られています。

彼女が日本に帰ってきて、女学校を作るまでの苦労話をご紹介します。

1. 日本語ど忘れ

彼女は6歳で留学し、17歳で帰国命令を受けました。

それまでの間、アメリカで英語に囲まれて育ち、

現地の学校に行っていたため日本語には触れずにいました。

そのため日本語を完全に忘れてしまったのです。

帰国したとき、自分の母親とも話せなかったそうです。

2. 日本女性の地位の低さ

帰国後、男子の留学生は政府組織のポストが与えられていたのに、

梅子にはなんの地位も与えられませんでした。

また結婚もしなければならないという風潮もありました。

そのような状況に津田梅子は日本女性の地位の低さに落胆します。

3. 二度目の留学

日本の女子教育のヒントを得るために、梅子は再び留学をします。

そこで旧友アリスに再会し、彼女と話している中で、

日本女性が直面している問題に気がつきます。

4. 女性の自立のために、学校を設立!

帰国した彼女は勤めていた学校を退職します。

当時の日本では、女性が自立できるほど稼げる仕事は教員しかありませんでした。

しかも女性の教育の学校はない。

こうして女子英語教員養成学校の設立を目標にします。

5. 親友の力を借りて

いざ学校を設立しようにも、その当時は良妻賢母である女性を育む学校が主流でした。

そのため梅子を支援してくれる人はその当時の日本にはいませんでした。

そんな梅子に声をかけてくれたのは、親友の捨松でした。

彼女の旦那さんは陸軍元帥で、信用がある人物であるとして顧問になりました。

またアメリカからアリスが来日し、無償で尽くしてくれました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/津田梅子

6. 津田塾大学の開校

こうして10人の生徒を集め、明治33年9月に「女子英学塾」(現・津田塾大学)を誕生しました。

3年後にこの初めての生徒が卒業する際の祝辞はとても感動するものなので、

是非一度読んでみてください。

「学校を卒業することは、風や闇の試練に立ち向かう旅へ出発する船の進水に例えることができます。

皆さんは学んだことを無駄にしないように努めることは、この学校と先生方に対する皆さんの責任であります。

皆さんは多くの日本人女性よりも大きな機会に恵まれてきました。

このことが皆さんに、そして周りの人たちに大きな意義を持ちますように。

皆さんひとりひとりが“光を見る目、永遠の真理を知る洞察力、憐れみと最も優しい慈悲に満ちた心、闇を照らす信仰”を持ちますように。

津田梅子

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