足利尊氏と楠木正成から見た南北朝の始まり【日本史雑学】

今回は足利尊氏と河内のヒーロー楠木正成を中心とした、南北朝の始まりにまつわるお話です。

1. 笠置山の戦い

正成が用意した兵はわずか500人。対して鎌倉幕府は75000。

圧倒的不利な状況で向かい打つことになった正成ですが、様々な奇想天外な策略で敵を圧倒し、最後は火をつけ城を燃やして逃げていきます。

なぜそんなことをしたかというと、幕府軍に「ああ、あいつら死んだんだな」と思わせ撤退させるためです。思惑通り幕府軍は帰っていきました。

この奇策を見抜いた人が1人だけいました。それが足利尊氏です。これによって、尊氏の脳裏に楠木正成という存在が刻み込まれました。

2. 尊氏、敵から仲間へ

幕府に対して失望していた足利尊氏は正成の討伐を命じられましたが、後醍醐天皇が全国に配った倒幕の要請を耳にしそれに応じます。

そのため元々正成を攻めるはずだった兵は六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とし、都を制しました。

二人の功績をたたえ、正成と尊氏には最高の名誉が与えられます。

足利尊氏(https://ja.wikipedia.org/wiki/足利尊氏)

3. 後醍醐天皇の新政権

しかしいざ、後醍醐天皇の新政権が始まってみると批判がみるみるうちに膨れ上がりました。

彼は武士同士での話し合いなど一切禁じるなど、日本史上類稀なる独裁政治を目指していたからです。

しかも足利尊氏を恐れていたため、征夷大将軍の称号を求めても拒否していました。

後醍醐天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/後醍醐天皇)

4. 尊氏の反乱

こうして不満が溜まった武士達と尊氏によって反乱が起きます。

焦った後醍醐天皇は新田義貞に尊氏を討伐しろと命令しますが、返り討ちにあいます。

正成は足利尊氏の頭のキレを理解していたため、後醍醐天皇に尊氏との和解を提案しますが受け入れられませんでした。

しばらく何もなく余裕ぶっていた公家達でしたが翌年に、尊氏が再び動きを見せます。

戦が始まろうとしていました。その戦に際して、正成は天皇が一度京から退き、誘いこまれた尊氏達を攻撃するという作戦を提案しますが、これに対して公家達は

「天皇が京から出るのはちょっと、、」と言って反対します。

5. 正成、万策尽きる

正成はもう勝てる戦法が浮かびませんでした。

しかし尊氏を正面から向かい打つことを決意します。

この時代は裏切りや寝返りは当たり前でした。

それでも正成は最後まで天皇に仕えました。

命を落とすことを確信していた正成は息子に別れを告げて、最初で最後の尊氏との決闘に向かいました。

楠木正成(https://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正成)

6. 南北朝へ


尊氏に敗れた後醍醐天皇は吉野に逃げ、南朝を開きます。

これが南北朝時代の始まりです。

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